文字サイズ
拡大
縮小
色変更
標準
青地に黄色
黄色地に黒
黒地に黄色

English

  • お問い合わせ
  • サイトマップ

明日の地球のために

ホーム > 四日市公害を知ろう

ここから本文です。

掲載日:2018年4月1日

四日市公害

日本の産業公害改善についての概要

日本では、1960年代、強まる社会的需要に押される形で、行政と民間企業が協力し合って、主要な7つの公害(大気汚染、水質汚濁、土壌汚染、地盤沈下、悪臭、騒音、振動)対策を精力的に進めてきた。その甲斐あって、1972年以降徐々に環境は改善され、今では、世界でも他に例を見ない公害克服の恩恵を享受している。その一方で、国内総生産(GDP)は、安定した成長をみせているが、それは、これまで環境保護と経済成長をうまく調和させてきた証とも言える。

公害対策技術について、適切な技術が、その実行性・可能性に応じて慎重に用いられている。例えば、燃料油の脱硫及び、排煙脱硫技術の開発に関して、行政と民間企業が手を取り合って取り組み、到達した技術レベルに応じて、排出基準が設けられた。国は、融資・税制面での刺激策も導入し、厳しい環境基準を達成できるように推し進めてきた。

その代表的なものが、政府系金融機関からの低金利融資、特別償却制度、固定資産税の控除・免除等である。公害防止措置・政策を決定する際においても、国は、民間企業との良好な関係を築きつつ、その防止策を普及させようと、会議やセミナーなどを通して議論する機会を設けてきた。

また、より効果的な公害対策を実施するため、実際の汚染状況に関する統計データを把握できる立場にある地方行政の責任を明確化した。

日本の環境は、主として、このような進歩的な行政側の取り組み及び、民間企業が公害防止技術を開発し、防止策をとってきたおかげで、望ましいレベルを維持している。

大気汚染対策への取り組み三重県四日市市

1、石油化学コンビナートの建設及び、公害の発生

(1)日本の産業政策及び、石油化学コンビナートの建設

三重県の四日市市は、地理的に日本列島の中心に位置し、名古屋から南西40キロのところにある主要な産業・商業都市です。東には伊勢湾、西には、鈴鹿山脈がそびえ、海岸から山脈までは、約25キロ。沿岸部に街の中心があり、現在、人口は約30万人。

戦後、日本政府は、経済を立て直そうと、1955年の石油化学産業整備計画を含め、石油化学産業第1期計画を発表した。その際、石油化学コンビナートの建設地の1つに四日市が選ばれた。

四日市に最初に建設された石油化学コンビナート(第1コンビナート)には、年間2万2千トンの生産能力を持つエチレン工場のほか、石油精製所、発電所、石油化学関連の製造工場等が立地し、1959年には、国内初の石油化学コンビナートが稼動。

数年後、石油化学産業第2期計画に基づき、市内に2つ目の石油化学コンビナート(第2コンビナート)が建設され、1963年に稼動開始した。そこには、年間生産能力4万2千トンのエチレン工場等、石油化学関連工場が入った。1972年、エチレン及び、石油化学関連製品に対する需要が高まる中、それを満たそうと、コンビナートが拡張され、3つ目のコンビナート(第3コンビナート)が建設された。年間30万トンもの生産能力のあるエチレン工場があり、同年に稼動開始。

第1・第3コンビナートのエチレン工場は、のちに、製造能力が向上され、それぞれ年間28万トン、38万トンの製造が可能になった。

四日市は、このような産業発展を背景にして、今日も多くの石油化学関連製品を出荷している。

(2)海の汚染及び、異臭魚

四日市は、呼吸器系疾患の「四日市ぜんそく」の原因となった、深刻な大気汚染で有名だが、最初に公害被害を受けたのは漁業であり、酷い水質汚濁の影響を大きく受けた。

1959年、東京・築地の中央卸売市場では伊勢湾の魚、特に四日市沖で獲れた魚は、売れずに返却されるか、「油っぽい臭いがあるため、食用に不向き」というレッテルが貼られ、大きく値引きされた。

その後、三重県は異臭の原因を追究しようと「伊勢湾汚水対策推進協議会」を発足し、1961年4月に「油臭い魚は、石油精製所又は、石油化学工場から流された鉱油を含む廃水が、魚に吸収されたことが原因である」と異臭魚の原因を特定した。のちに、これは科学技術庁の調査報告書でも裏付けられた。

このように、四日市沖では工場からの廃水によって魚、海の生物に甚大な被害をもたらし、沿岸漁業に多大な損害を与えた。ゆえに、長年コンビナート関連の石油化学工場は、被害を訴える地元漁師と対立状態にあった。しかしながら、このような異臭魚の状況は、徐々に改善されている。

(3)大気汚染及び健康被害問題

漁業に多大な被害をもたらした水質汚濁に続き、ばい煙、悪臭等の深刻な大気汚染に直面した。

第1コンビナートが稼動開始した1959年頃に、コンビナート周辺地域、特に塩浜地区及び磯津地区で、ぜんそく等の呼吸器系疾患に苦しむ住民が顕著に増え始めた。

それ以降、その原因を突き止めようと数々の調査がなされたが、当初はまだ、大気汚染との因果関係が特定されていない中で、調査対象がはっきりしていなかった。まず、1960年11月から、三重大学によってコンビナート周辺の亜硫酸ガス(SO2)濃度と降下ばい塵量の計測が開始され、当初は、手動型の測定機が用いられていたが、その後1962年に、自動測定機に切り替えられた。

同大学が1961年に提出した報告書によると、磯津地区は、特に冬になると、コンビナート側から吹く北西の季節風の風下にあたるので、汚染の影響を酷く受けるということだった。磯津地区では、亜硫酸ガス濃度が時間平均1ppm年平均では0.1ppmにまで達することもあり、年平均だけをみても、現在のレベル(0.008ppm)の10倍以上であった。一方、夏場は、市内中心部の亜硫酸ガス濃度が、コンビナート方面からの南東の風の影響で、極めて高いレベルにまで上昇した。

さらに、こうした汚染物質の計測と平行して、住民の健康調査を実施し、その結果、呼吸器系疾患を患う住民は、主にコンビナート近隣に集中していることが明らかになった。亜硫酸ガスは、この疾患の主な原因のひとつだという想定を基に、調査が続けられた。第2コンビナートが本格操業した1963年あたりから、公害に関連した住民からの苦情が劇的に増え、当初の苦情は主に悪臭だった。

濃度が低い時に人の嗅覚の入口に留まる亜硫酸ガス、原油から発生する硫化水素(H2S)、メチルメルカプタン、石油化学製品の製造工程で出るアルデヒド等、悪臭物質がすぐさまその攻撃対象となった。更に事態を悪化させたのは、第2コンビナートが試験運転中に、稼動ストップし、その際、多量の悪臭を放つ廃水を流してしまったことである。これをきっかけに、住民は苦情・訴え等、それまで以上に強い姿勢に出るようになった。

(4)地方行政の実態調査

三重県と四日市市は、深刻な公害問題に直面したが、それに対して迅速に対処したので、後の対策段階になって、納得のいく公害防止の成果を得ることができた。

この対処の一環として、市は「四日市市公害防止対策委員会」を1960年8月に発足し、市内の汚染状況の調査に乗り出した。同委員会が、同年にまとめた中間報告書によると、「磯津地区では亜硫酸ガス濃度が、市内の他の地区に比べ、6倍近くもある。」というものであった。そして、翌年1961年の最終報告書では、「四日市の呼吸器・循環器系統の疾患による死亡者数が、著しく増加傾向にある。」と指摘。この報告書を基に、三重県と四日市市は、国に対して、四日市市を「ばい煙規制法」の指定地域にするよう訴えた。

工場からのばい煙排出に関して規制する制度がない中、汚染状況が日増しに悪化した。三重県と四日市市の訴えを受けて、国は、四日市の大気汚染を重く受け止め、四日市地区大気汚染特別調査会を発足し、汚染地区に調査団を送り込んだ。1963年に、汚染状況の調査を開始し、翌年3月に、報告書をまとめ、その中で公害対策における産業と行政の基本的な義務を示した。

また、その報告書では、「ばい煙規制法」の地域指定、排煙を拡散・希釈するための高煙突化、大気汚染監視網の整備・改善等、10項目の勧告がなされたばかりではなく、国に対して、深刻な大気汚染に苦しんだ四日市の過去の経験に基づいた「将来の日本の公害対策の方向性」を促し、国の産業政策を見直す目的があった。

四日市では、大気・水域環境が、工場から排出される油っぽい廃水、スス、塵、亜硫酸ガス等によってひどく汚染されていた。これは、戦後の高度経済成長期に、周囲の環境への影響を考慮せずに、適切な防止措置もとることなく、急速な工業化に向け邁進し、大規模コンビナートを建設したことに起因するものであった。

(5)四日市公害訴訟

1967年、磯津地区の患者が、第1コンビナートの6社を相手に民事訴訟を起こし、国内初の公害関連裁判「四日市公害訴訟」へと発展していった。

5年後の1972年には、原告患者側が勝訴し、被告企業の不法行為及び、行政による公害対策の不十分さを指摘された。当訴訟で危機感を覚えた地方行政と民間企業は、それぞれが大気汚染防止策を講じる責任があると認識し、公害問題克服の為、さまざまな対策を練り始めた。これが、のちに、国や他の地方自治体が環境保全対策を進める際の基準・指針となり大きな影響を与えた。

2、公害防止策の歩み

(1)ばい煙規制法(1966年)

「ばい煙規制法」は、1962年に制定された法律で、日本の公害防止に関する法律としては最初のものである。また、亜硫酸ガス及び、ばい煙の排出を規制するものであった。この法律の規制地域に指定された場合、指定地域内に設置されるばい煙発生施設について一定の排出基準が設けられた。

先に触れた四日市地区大気汚染特別調査会が提出した報告書で動き出した国は、1964年、四日市市を「ばい煙規制法」の規制地域に指定した。そして、2年後の1966年に施行されたが、この規制法で、四日市の大気汚染削減に実質的な効果があったとはいえない。

(2)公害対策基本法(1967年)

国は、亜硫酸ガス等、大気汚染物質に関する問題を改善するためには、抜本的な対策が必要であることから、1967年に「公害対策基本法」を制定した。それは、公害防止の基本原則を規定した世界的にも珍しい法律だった。また、直接、規則又は、行政措置について、必要条件を提示するのではなく、より厳しい公害防止策を推進し、地域社会に対してさまざまな公害防止措置を講じるよう図るものであった。

また、同年、三重県は「三重県公害防止条例」を公布し、国より厳しい汚染物質の排出基準を課すものであった。

(3)大気汚染防止法(1968年)

「ばい煙規制法」の適用にもかかわらず、亜硫酸ガス等の有害な汚染物質が原因とされる大気汚染は、望ましいレベルにまでの改善は見られなかった。そこで、当時、そういった汚染対策の行き詰まりを打開することになったのが、より進んだ制度「大気汚染防止法」だった。これは、それまで汚染物質の排出に関してのみ規制していた「ばい煙規制法」とは大きく異なり、K値規制を用いた、汚染物質の地上濃度を規制する法律だった。

また、コンビナート周辺で、亜硫酸ガスによる汚染の削減を図るため、民間企業に対して、高煙突化を進めるものでもあった。結果として、呼吸器系疾患の疾病率は急速に低下したが、皮肉にも、かえってそれが、有害な汚染物質を更に広い範囲へと拡散することになった。

(4)大気汚染総量規制(1972年)

「大気汚染防止法」が制定された1968年頃から、工場の高煙突化が推し進められ、汚染物質の地上濃度規制も段階的に強化された。しかしながら、四日市には大量の排煙を出す煙突が密集しており、それぞれの煙突の相互作用によって、特定の地域では亜硫酸ガス濃度が下がることはなかった。そこで、三重県は、このような状況を打開するために、これまでを上回る「大気汚染総量規制」という方式を導入し、特定地域において、許容範囲内で亜硫酸ガスの総排出量を抑えようと図った。導入の際、人体の健康状態を維持できるように、亜硫酸ガス濃度の最大許容レベル(0.017ppm)が設定され、のちに、指定を受けた個々の煙突からの亜硫酸ガスの排出量は、コンピュータ・シミュレーションで予測計算された。これに基づき、総排出量の許容範囲が、個々の固定発生源ごとに決められた。三重県は、1972年に「三重県公害防止条例」を改正し、全国で初めて、この方式を導入した。

それ以前にも、従来式の亜硫酸ガスの排出規制は、国の法律の下で実施されていたが、それは、地域性を問わず、全ての地域に対して同一の基準を適用するものであり、また、四日市のみならず、倉敷市、川崎市等の極めて深刻な汚染に直面している地域では、思うような効果を発揮していなかったのが現実であった。

「大気汚染総量規制」には、地方行政が直接規制を実施でき、公害問題の解決において強力で大きな効果が得られるという、2つのそれまでにない斬新な特徴があったので、長期にわたり大気汚染に悩まされてきた地域にとっては、非常に魅力的であった。

のちに、この方式は、国レベルの規制に盛り込まれたのだが、その一例として、「大気汚染防止法」の下で、硫黄酸化物(SOx)及び窒素酸化物(NOx)の排出量規制に適用された。また、より少ない硫黄分を含む高品質の燃料使用及び、排煙の脱硫工程の導入など、さまざまな規制措置をとるよう民間企業に促す指針であったために、企業側はそれに即して整備を進め、大気汚染は徐々に改善された。

(5)四日市市による公害患者の治療費負担制度(1964年)

四日市では、1960年頃から、呼吸器系疾患に苦しむ公害患者の数が大幅に増加するにつれ、健康被害問題が深刻になってきた。

やがて、患者が負担する医療費は大きく膨らみ、市内の複数の住民グループと医師会が、「行政には、公害患者たちの治療費を負担する責任がある」と訴える行動に出た。それに対し、1964年に、四日市市は、進行性の公害病入院患者の負担を軽減するために、試験的に公費で治療費を負担する制度を導入した。この制度が本格的に施行されたのは、1965年5月のことであったが、大気汚染がその原因であれば、重症患者のみならず比較的症状の軽い患者に対しても、公費で賄われた。その点において、これは国内初の試みであった。

また、この制度の対象となったのは、四日市市公害関係医療審査会に認定された公害患者であった。市は、治療にかかる経済的負担を軽減するために、健康保険適用外の医療費の負担をした。次の二つの条件を満たしていれば、認定公害患者として認められた:1.指定地域に3年以上の居住歴がある。2、三つの指定疾患のうち、いずれかを患っている(肺気腫、気管支喘息、慢性気管支炎)。

大気汚染との因果関係が明確になっていない段階での、このような措置は、歴史的にも極めてまれなことであり、冒険的な試みであった。また、国レベルでこういった措置を支援する法的背景がまだ確立されていなかったので、公費で賄う分は、全額市の負担であった。

1965年頃は、あらゆる制度が、適当なガイドラインのないまま、公害対策に手探り状態だった。それゆえに、四日市のこの治療費負担制度は、国や県レベルほど効力を発揮できるものではないかもしれないが、地方自治体が直接実施する公害患者救済の対策であるがゆえに、すぐさま公示された。これは後に、国の対策にも影響を与え、「公害に係る健康被害者の救済に関する特別措置法」が制定されるに至った。これにより、全国で公害患者が救済されるようになったのである。

3、技術に基づく汚染防止策の前進

(1)初期段階での企業の取り組み

1965年頃はまだ、燃料内の硫黄分を削減する技術が確立されていなかったが、当時、高煙突化を推し進め、排煙を希釈させることが、大気汚染を改善させる唯一の方法であった。それ以降、企業側による本格的な取り組みによって、脱塵、脱硫、脱窒等、汚染防止技術が数多く開発された。中でも、脱硫、脱窒等の処理技術は、急速に、かつ著しく向上した。

企業は、初期の取り組みとして、工場の煙突の高層化を図った。亜硫酸ガスの排出をより効果的に拡散・希釈できるように煙突を設計しようと、繰り返し風洞試験及び、コンピューター・シミュレーションを実施し、石油化学コンビナートには、高さ約150メートルの高層煙突が、相次いで設置された。それにより、四日市は、いわゆる「高煙突の時代」に突入したのである。

1967年になると、第2コンビナートの火力発電所で、排煙脱硫用の試験装置が稼動開始した。脱硫工程では、活性酸化マンガン法が用いられるが、そのための装置は、通産省(現経済産業省)の工業技術院のプロジェクトのもと開発された。

排煙処理と平行して、排煙脱硫技術も民間レベルで開発・導入されていた。1968年、当初平均して3%程度だった燃料内の硫黄分が、第2コンビナートの石油精製所に設置された重油間接脱硫装置を用いて、1.7%にまで低減させることに成功した。ここ数十年で燃料内の硫黄分は、石油関連企業の熱心な汚染防止努力のおかげで、大幅に低減された。四日市の大気汚染は、脱硫装置の導入、硫黄分の少ない高品質な燃料への切り替え等の数々の汚染防止への取り組みを実施した結果、飛躍的に改善された。

(2)脱硫装置の導入

1970年代、汚染防止技術の向上への取り組みが進められた結果、排煙脱硫装置の処理能力が劇的に向上し、それが、石油化学コンビナート関連の各工場に対して、その装置の導入・設置を促進するきっかけとなった。四日市が、公害対策に極めて熱心な都市のひとつである証拠に、国内の大型脱硫装置がどこよりも多く設置された。その中には、集塵機と呼ばれる、亜硫酸ガス及び、ばい塵を排煙から除去する装置があり、それは1974年に設置されたが、当時としては国内最大級であった。

四日市には、排煙脱硫装置が16台あり、その内訳は、水酸化マグネシウム法が10台、石灰石-石膏法が3台、稀硫酸-石膏法が1台、亜硫酸ナトリウム法が1台、触媒接触還元法が1台である。一方、脱硫、脱窒、脱塵技術が確立されたことにより、それまで環境への影響を考慮して、石炭の使用が控えられていたが、それを燃料として使用することが可能になった。これにより、市内には、1990年以降石炭燃料ボイラーが3台設置された。

(3)脱窒装置の導入

窒素酸化物(NOx)の環境基準は、「日々の時間値平均は、0.02ppmを超えてはならない(1978年の改正後は、0.04ppm~0.06ppmの範囲内又は、それ以下))。」だと、1973年、環境庁(現環境省)の公告内で規定された。これは、最も厳しい基準であり、企業は脱窒装置の開発という極めて困難な課題に直面することになった。

1975年頃、脱窒技術の開発を行うにあたって、その段階に関する評価をめぐって、国と企業側の見解は対立していた。国側は、脱窒技術の開発は、技術的に実現可能だと考えていたのに対し、企業側は、まだまだ、その実現には克服すべき難題が残されていると主張。ところが、ドライアンモニア触媒還元システム等の脱窒装置は、1978年以降実用化され、1990年以降、四日市市内の7つの工場に設置された。

(4)汚染監視網の整備

大気汚染を防止するために、汚染状況を正確に把握することは欠かせない。そのために、三重県は1962年に、日本で始めて自動測定機を用いて、亜硫酸ガスの継続的な測定を開始した。その後、1966年には、四日市市内4箇所にて、アナログ・テレメータ方式による大気汚染の常時監視を開始した。

1973年になると、県の条例で、四日市地域主要16工場に対し、デジタル・テレメータ(煙源テレメータ方式)の整備を義務化し、大気汚染につながる有害物質の排出量に関するデータを三重県環境科学センターに電送するよう求めた。この方式で、各工場は、使用燃料の種類、燃料消費量、排煙量、亜硫酸ガス濃度等、詳細にわたるデータを提出する義務があった。そうすることで、各工場からの排出量が、「大気汚染総量規制」を効果的に実施するために把握できるのである。

また、1991年には、各工場に対して汚染に関する予測情報を送る、大気汚染予測システムが導入され、それにより、有害な汚染物質の排出量を削減するために、効果的な予防策を講じることが可能になった。

4、四日市の公害対策

(1)四日市地域公害防止計画

1970年12月、四日市市は国に「公害対策基本法」の主要対象地域に指定され、それに基づいて、「四日市地域公害防止計画」が策定された。この計画では、1971年から1977年までの間に総額1,500億円を超える事業費を費やし、各種公害防止事業が実施された。

大気汚染防止については、硫黄分の少ない燃料の使用、高層煙突及び排煙処理装置の設置、高性能集塵機の整備等、水質汚濁には、廃水処理施設、騒音には、騒音遮断施設の整備など、汚染の種類に応じて、防止策の項目が決められた。それにより、企業は汚染削減対策に着手しようという意識が高まった。

このような取り組みで、当初の予想以上に防止対策に成果があった。つまり、総量規制の対象地域に指定されていた都市は他に11あったが、四日市は、1976年、それらに先駆けて、長期的な亜硫酸ガスの環境基準を達成した。以来、亜硫酸ガス濃度は、三重県が当初設定した目標値よりも低い状態を維持している。

(2)公害患者救済制度

医療費給付について、元々四日市市が公費で公害患者に対し実施していたが、1970年2月に「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法(健康被害救済法)」が公布されたことによって、国にはそれを負担する責任があるということになった。また、公害病を患っているために働けない患者を支援するため、石油化学コンビナート系の企業が拠出し、「四日市公害対策協力財団」が設立された。そこから、生活費手当、死亡見舞金、示談金、臨時手当等が患者らに支給された。

1974年9月に、「公害健康被害補償法」が施行されたことで、それまで公害患者に対して四日市が独自に実施していた治療費支援は、国が引き継いで行うことになった。この法律に基づき、医療手当、傷害補償金、遺族給付金等の手当が支給された。のちに、大気汚染による公害事例が減ってきたというのもあって、その名称が「公害健康被害の補償等に関する法律」に変更された。

1972年に施行された亜硫酸ガス排出規制の「大気汚染総量規制」及び、上記の「四日市公害対策協力財団」による公害患者に対する支援制度といった、四日市の2つの画期的な制度は、国の法律に大きな影響を与えた。前者は、公害防止対策の発展に、後者は、公害患者救済に大きく貢献したのである。

三重県は、石油化学コンビナート付近の沿岸地域及び、市内西部の郊外にて、最近の閉塞性呼吸器疾患の患者数を調査しているが、1971年以降、その数は、この2つの地域で大きな差は見られていない。

(3)公害防止協定

石油化学コンビナート関連の企業は、住民の生活環境を守り、しっかりした公害防止策を推進するために、1968年以降、公害防止に関する協定を締結してきた。また、四日市では、1975年に「石油コンビナート等災害防止法」が制定されると、ますます公害防止協定を結ぼうとする企業が増えた。

例えば、自治会長及び、コンビナート関連工場の幹部からなる公害防止協定に関しての協議の場がたれ、年に数回開かれている。そこでは、企業側の幹部が定期的な運転停止スケジュール、施設増設等についてのコンビナート稼動計画を報告し、自治会長を通じて地域との意見交換を図る場でもある。

(4)環境影響評価(公害事前審査会)

公害に関して、既存の問題についての対策のみならず、それを未然に防ぐことは、公害防止行政において非常に重要なことである。

三重県は、1972年に、「三重県公害事前審査会条例」を施行し、公害未然防止行政にいち早く乗り出した。公害事前審査会は、工場・事業場を新たに建設、増設する前に、技術面から地域でのその適用性を審査した。

これは、1979年「環境影響評価制度」として整備され、工場施設の建設等の開発事業がもたらす自然及び、生活環境への影響を予測・評価する制度である。

そのもとで、地域自身がその地域内での開発事業又は、施設建設から受ける環境への影響を予測・評価でき、1984年には、国レベルの環境行政制度として、実施されるに至った。

(5)国際環境技術移転研究センター(ICETT)の設立

四日市における環境問題の過程は、以下のように3段階に分けることができる。

  • 第1段階(1958年~1967年)戦後の経済・産業の再建を目指し、沿岸部に工業地帯(石油化学コンビナート)を建設。
  • 第2段階(1968年~1977年)産業化が進む中、活発な商業活動で発生した汚染物質が原因の公害発生、及び、行政と企業が共に協力し合って、公害問題の克服と環境改善への取り組みを実施。
  • 第3段階(1978年~1987年)開発途上国での環境保全を目指した国際貢献の準備、及び、高度な公害防止技術、過去20年余りの公害対策における苦い経験に基づく、望ましい都市計画。

第3段階の結果、実施された主なことは、1990年に三重県、四日市市、国、民間企業の支援と協力を得て、国際環境技術移転研究センター(ICETT)が設立されたことであった。

現在、数々の開発途上国が、固定・移動汚染源からの公害に悩まされている。日本が初めて環境問題に直面した当時、それに関する知識も対策技術も不十分であった。日本の過去の経験から、環境改善又は、公害患者救済にかかるコストは、公害防止に必要なコストに比べはるかに莫大なので、可及的速やかに環境保全策を講じることは、極めて重要である。

四日市は、公害を改善した歴史と経験を通して、公害対策に役立つ技術と知識を蓄積してきた。そういったものを、技術的な支援を通して、産業化の真只中にある開発途上国に対し提供することは、大変重要だと考えられる。こうした取り組みが、そういった国々の環境保全につながるだけでなく、世界の公害防止にも寄与できるのである。1993年11月、「公害対策基本法」に代わる「環境基本法」が制定されたが、その主な特徴は、環境保全における国際協力の重要性をうたっていることである。ICETTは、開発途上国に対し、技術支援等を実施し、国際協力の分野で重要な役割を果たしている。

 関係リンク